2012年4月9日月曜日

Other People (J-L)


Other People (J-L)



Glyn Johns

    イギリスの名エンジニア/プロデューサーであるグリン・ジョンズは、元々は歌手として1960年代初頭にそのキャリアをスタートさせたのだそうです。しかし、その方面での成功は得られず、間もなくキンクスやフーのプロデューサーとして知られるシェル・タルミーの下でエンジニアとして働くようになります。1965年にエンジニアとして独立したジョンズはローリング・ストーンズやトラフィックの作品を手がけ、ロンドンのオリンピック・スタジオを拠点に次第に名声を確立していきました。

    彼がもっとも早く手がけたアメリカのアーティストはスティーヴ・ミラー・バンドです。彼らとの仕事でジョンズは初めて、エンジニアとしてだけでなくプロデューサーとしてクレジットされました。スティーヴ・ミラー・バンドがなぜジョンズに白羽の矢を立てたのかわかりませんが、概ね当時のブリティッシュ・ロックの勢いにあやかりたいということだったのでしょう。

    当時のジョンズの音作りは、ヒット・チャート向けのなめらかなサウンドとは対極にある、ゴツゴツとした肌触りのサウンドでした。これは、次第にルーツ・ミュージック色を強めつつあったローリング・ストーンズの嗜好を反映したものなのだろうと思います。そうしたサウンドはスワンプ・ロックにぴったりのものです。こうして、ロサンゼルス人脈によるジョンズの初起用はスワンプ・シーンから起こりました。1969年から71年にかけて、デラニー&ボニー、レオン・ラッセル、ジェシ・デイヴィス、リタ・クーリッジ、マーク・ベノ、ジョー・コッカー(この人はイギリス人ですが)といったLAスワンプの主流アーティスト達がこぞってジョンズにエンジニアリングを委ねています。これらのレコーディングの中にはロンドン録音だ� �でなく、ジョンズをアメリカに招いてのレコーディングも多く含まれています。

    1972年、ジョンズは新たに結成されたばかりのイーグルスのプロデュースを担当することになります。これはデヴィッド・ゲフィンのアイディアで、まだグループとしてのまとまりを欠くイーグルスをイギリスに出張させることを通じて連帯感を高めようという意図だったようです。イーグルスの作品ではジョンズはそれまでのゴツゴツしたサウンドとは異なる、エコーを活かしたミステリアスなサウンドを提供しています。『Eagles』『Desperado』の2つのアルバムをプロデュースした後、『On The Border』のレコーディング中にジョンズはメンバーとの意見の相違からプロデューサーを降板します。『On The Border』では「Best Of My Love」と「You Never Cry Like A Lover」だけがジョンズのプロデュースによるもので、あとは新たにプロデューサーとなったビル・シムジクによるものなのですが、面白いことにイーグルスにとって初の全米No.1シングルとなったのはジョンズがプロデュースした「Best Of My Love」でした。

    イーグルスの作品群の成功は、イーグルスのフォロワー達をジョンズのもとへ向かわせることになります。こうして彼はフールズ・ゴールドやアウトローズの作品もプロデュースし、カントリー・ロックの分野でも代表的プロデューサーの一人となります。

    もちろんイギリス勢の仕事を辞めてしまったわけではなく、70年代全般を通してエリック・クラプトン、ロッド・ステュアート、レッド・ツェッペリン、フーといったビッグ・ネームのプロデュースを次々にこなしています。

    尚、彼の弟のアンディ・ジョンズもエンジニアです。アンディは60年代末から70年代初頭にかけては兄の関わる作品で共同エンジニアを務めていましたが、70年代末にアメリカに移り、テレヴィジョンやジョニ・ミッチェルの作品に参加しています。80年代以降はヴァン・ヘイレンやボン・ジョヴィを筆頭にハード・ロックの名プロデューサーとなっています。更に、グリンの息子であるイーサン・ジョンズもまたプロデューサーとしての道を歩み、クリス・スティルス(スティーヴン・スティルスの息子)やバーニー・レドンの作品をプロデュースしています。


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Gary Katz

    ゲイリー・カッツはスティーリー・ダンのプロデューサーとして高い知名度を持っていますが、その割には彼がどんな人なのかを詳細に紹介した文章は驚くほど少なく、謎に包まれた人物という感じがします。特にスティーリー・ダンの音作りにおいて彼がどのような役割を果たしていたのかという点については、彼はミュージシャンやスタッフを集めてくるのが仕事であり、直接的に音楽にタッチしているわけではないという見解もあれば、スティーリー・ダンのこだわり抜いた音作りにはカッツが大いに貢献しており、その証拠に再結成後のスティーリー・ダンはどこか音の雰囲気が違うという見解もあります。

    彼は60年代にニューヨークで仕事を始めています。初期の仕事として知られているのが、後に名プロデューサーとなるリチャード・ペリーと共同でプロダクション会社を運営していたというものです。当時はゲイリー・キャノンと名乗っていました。この時期にドナルド・フェイゲンとウォルター・ベッカーと出会ったようです。60年代末にABCダンヒルのスタッフ・プロデューサーとしての職を得たカッツは、ロサンゼルスに転居します。フェイゲンとベッカーもロサンゼルスに呼び寄せて二人の書く楽曲を様々なアーティストに売り込みますが、それが今ひとつうまく行かなかった為に、二人にバンドを組ませる方針に転換します。スティーリー・ダンのオリジナル・メンバーのうち、デヴィッド・パーマー、ジェフ・バクスター、ジム・ ホッダーの3人はカッツが連れて来たのだそうです。

    レコード・デビューしたスティーリー・ダンの成功はここで改めて書くまでもないでしょう。スティーリー・ダンは徐々にメンバーが脱退してしまい、スタジオ・ミュージシャン中心の演奏にシフトして行きますが、それにはカッツの人選の才能が大いに貢献したようです。サウンドそのものへの貢献度は前述の通りよくわからないのですが、少なくともレコーディングにやたらと時間をかけるというスティーリー・ダンの手法は、カッツの好みを反映したものなのだそうです。

    スティーリー・ダンの活動期間中は、カッツは他のアーティストのプロデュースはあまり積極的に行っていませんが、それでもダーク・ハミルトン、マーク・ジョーダンらと印象的な作品を残しています。70年代後半にはABCからワーナー・ブラザーズへと移籍。それに伴ってスティーリー・ダンもワーナーに移籍する話があったのですが、この話は裁判で潰れました。ワーナーのスタッフとしてのカッツは、前述のマーク・ジョーダンのプロデュースの他、新人発掘の仕事で活躍し、プリンス、リッキー・リー・ジョーンズ、クリストファー・クロスらとの契約に関わったそうです。

    スティーリー・ダンの解散後はそれ以外のアーティストをプロデュースする機会も増え、アイ・トゥー・アイ、ダイアナ・ロス、ジョー・コッカー、10CCらの作品を担当しています。また、ドナルド・フェイゲンの最初のソロ作品である『Nightfly』もカッツのプロデュース作です。


Carol Kaye

    スタジオ・ミュージシャンの世界は男性が多いのですが、キャロル・ケイは女性スタジオ・ミュージシャンの草分け的な存在です。元々はジャズ・ギタリストとして1950年頃からロサンゼルスの様々なジャズ・コンボで活動した彼女ですが、50年代後半からはスタジオの仕事もこなすようになり、サム・クックなどのレコーディングでギターを弾いています。おそらくこの時期にルー・アドラーと知り合っているものと思われます。

    ある日、ベーシストが急遽スタジオに来れなくなったことから、ギタリストのキャロルが代理でベースを弾いたところ、これが関係者の間で好評を博し、以後彼女にベーシストとしての仕事が次々と舞い込むことになります。レッキング・クルーの一員として、ルー・アドラー、テリー・メルチャー、ゲイリー・アッシャーによるサーフィン/ホット・ロッド・サウンドや、フィル・スペクターのウォール・オヴ・サウンド、そしてビーチボーイズの作品群にレギュラー・ベーシストとして貢献した他、映画・テレビ音楽の分野でも重宝され、ジェリー・ゴールドスミス、アルフレッド&ライオネル・ニューマン、ジョン・ウィリアムズらの作品に多数参加しています。


    オスカーを獲得する最初のアフリカ系アメリカ人であった

    また、後年分かったことなのですが、60年代にはデトロイトでレコーディングを行っていたはずのモータウンも、かなりの作品をロサンゼルスで録音していたそうで、それらの作品でもキャロルはベースを弾いています。90年代後半にキャロルが自身のウェブサイトを公開するようになり、そこに自分の参加した主なヒット曲の一覧を掲載したのですが、そこにシュープリームズ、ミラクルズ、スティーヴィー・ワンダーらの60年代のヒット曲の名前が載っていたことから、ファンの間で「なぜデトロイトのレコーディングにキャロル・ケイが参加してるんだろう?」という疑問の声が起こり、リサーチが進められた結果、それらの作品がロサンゼルス録音であることがわかりました。

    キャロルはまた、ベースの教則本を書いたり、教則ビデオを開いたり、あるいは講座を開いて生徒を教えたりといった活動を通じて、後進のベーシストを育てることにも熱心でした。デヴィッド・ハンゲイトやマックス・ベネットといった有名ベーシストも彼女の生徒なのだそうです。


Don Kirshner

    ロックンロールの登場は音楽業界を大きく変えましたが、業界の全ての部分が直ちにロックンロールという新しい波に対応できたわけではありません。当時の音楽出版社たちはフランク・シナトラのようなポピュラー・シンガーに曲を取り上げて貰うことに重点を置いており、ロックンロール・シンガー向けの楽曲は取り揃えていませんでした。

    その状況に目を付けたのが、コニー・フランシスやボビー・ダーリンのマネージャーだったドン・カーシュナーです。アル・ネヴィンズと共に音楽出版社アルドン・ミュージックを設立した彼は、ニューヨーク中の作曲家志望の若者たちを集め、ロックンロールに対応できる体制を整えました。アルドンに集ったソングライター陣はニール・セダカ&ハワード・グリーンフィールド、キャロル・キング&ジェリー・ゴフィン、バリー・マン&シンシア・ウェイル、ニール・ダイヤモンドといった錚々たる顔ぶれです。

    後に続いたトリオ・ミュージック(リーバー&ストーラーが設立した音楽出版社)などと共に、アルドンはロックンロールの産業構造を大きく変えました。それまでは自作自演かカントリーやブルースのカヴァーが中心だったロックンロールが、音楽出版社の豊富なカタログを使って新曲を次々と出せるようになったのです。それと同時に、それまでの音楽出版社のカタログからそのアーティストにあった楽曲を探すA&Rマン(プロデューサー)の力が強くなっていきます。こうしたロックンロールの新しい流れは、トリオなどが入居していた建物の名前をとってブリルビルディング・サウンドと呼ばれるようになります。

    1963年にカーシュナーとネヴィンズは会社をコロンビア・ピクチャーズに売却しますが、カーシュナーはその後も会社に残り、スクリーン・ジェムズと改名したアルドンの指揮を取り続けます(ネヴィンズは同社のコンサルタントになったものの間もなく死亡)。

    アルドンとロサンゼルスの音楽シーンの関わりと言えば、何と言ってもフィル・スペクターのヒット曲の大部分をアルドンの作曲家たちが提供していたことがもっとも有名です。また、当時ルー・アドラーはマネージメント業の傍らスクリーン・ジェムズの西海岸代表も務めており、ジャン&ディーンの作品群も同社から出版されています。

    1964年以降、ビートルズのアメリカ上陸とフォーク・ロックの隆盛によって時代は徐々に自作自演へと向いていき、音楽出版社には逆風が訪れますが、カーシュナーはそれに負けじと映画会社の傘下であることを活かし、映像のメッカであるロサンゼルスに拠点を移した上で、テレビ番組を通じてスターを作り、そのスターに自社の楽曲を歌わせるという新戦略を打ち出します。これがモンキーズです。

    1966年にデビューしたモンキーズは大成功を収め、カーシュナーの眼力の正しさが証明されたわけですが、間もなく音楽出版社主導で音楽作りを進めたいカーシュナーと、アーティストとしての自立を求めるモンキーズの間で対立が起こります。この対立が頂点に達した結果、ドル箱のモンキーズを失いたくないと考えたコロンビア映画はカーシュナーを解雇してしまいます(後任はレスター・シル)。


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    しかし、ここで挫けるカーシュナーではありません。テレビを通じてヒットを出すという彼の戦略自体は的を射たもので、ただアーティストのエゴだけが問題だったわけです。そこで彼が考えたのがエゴのないスター、すなわちアニメーションの登場人物たちに曲を歌わせることでした。これがアーチーズです。1969年に「Sugar, Sugar」のヒットを出したアーチーズの作品で実際に歌ったり演奏したりしていたのは、ジェフ・バリー&エリー・グリニッジを筆頭とするカーシュナーの配下のミュージシャン達でした。

    その後もテレビ番組『Don Kirshner's Rock Concert』を企画して司会も務めた他、自らのレーベルからカンサスを輩出するなど、1970年代中盤までカーシュナーの音楽界における威光は続きました。


Russ Kunkel


Joe Lala

    コンガ、ボンゴ、トライアングルなどを演奏するパーカッション奏者も様々な音楽スタイル分けることができます。70年代のロサンゼルスにおいては、ソウル系パーカッションならボビー・ホール、ジャズ系パーカッションならヴィクター・フェルドマン、そしてラテン系ならジョー・ララという住み分けができていたようです。

    フロリダ出身のジョー・ララは同地で結成したブルース・イメージというラテン・ロック・バンドの一員としてデビューしました。ニューヨークを経由してロサンゼルスへ進出したブルース・イメージはアトランティックとの契約を得、1969年から70年にかけて3枚のアルバムを発表しています。セカンド・アルバム『Open』からはヒット曲「Ride Captain Ride」が生まれました。

    ブルース・イメージのプロデューサーがビル・ハルヴァーソンだった縁だと思うのですが、ララはブルース・イメージの解散後、スティーヴン・スティルスと出会い、マナサスに加入します。スティルスは以前からラテン・サウンドへの志向を示していたので、ララは彼にとってうってつけのミュージシャンだったことと思います。彼はその後もずっとスティルスと行動を共にし、『Daylight Again』や『American Dream』といったクロスビー・スティルス&ナッシュの再編盤にも参加しています。

    ララの活動のもう一本の柱としてはマナサスで知り合ったクリス・ヒルマン、リック・ロバーツとの関わりです。彼は2人のソロ・アルバムの他、サウザー・ヒルマン・フューレイ・バンドやファイアフォールの作品にも、そのご機嫌なラテン・パーカッションを提供しています。

    また、ジョー・ウォルシュの『Down The Road』への参加をきっかけにウォルシュ人脈ともつながりができ、ウォルシュやダン・フォーゲルバーグの作品にも早くから顔を出しています。

    セッション・ミュージシャンとして人脈的につながりの薄いアーティストの作品にも多数参加しており、ビー・ジーズ、バーブラ・ストライザンド、ロッド・ステュアート、ホイットニー・ヒューストンなどのアルバムでもそのプレイを耳にすることができます。

    しかし、おそらくは1990年前後のことだと思うのですが、彼は手根管症候群という手関節の病気により演奏生命を絶たれてしまいます。彼は第2のキャリアとして俳優の道を歩き始めました。彼の俳優の仕事としてはTV映画『バットマン・ビヨンド』への出演や、映画『モンスター・インク』への声の出演がよく知られています。カタカナで書くと同じになってしまうJoe Laraという俳優もいて、紛らわしくて困ってしまいます。


Charles Larkey

    チャールズ・ラーキーはニューヨークのバンドであるキング・ビーズのベーシストとして本格的なプロ活動を開始しました。キング・ビーズというグループ名を聞いて「ダニー・コーチマーとバンド・メイトだったのかな?」と思う人もいるでしょうが、ふたつは同名異グループです。ラーキーらは紛らわしさを避ける為にやむなくグループ名をミドル・クラスと変更します。この奇妙な縁でチャールズ・ラーキーとダニー・コーチマーは親しくなり、後に共同で音楽活動を行うようになります。

    ミドル・クラスはキャロル・キング&ジェリー・ゴフィンが設立したトゥモロウというグループと契約し、レコード・デビューに成功します。しかし、グループは長続きせず、解散を迎えます。ちょうど同じ頃、コーチマーも在籍していたフライング・マシーンが解散したばかりで、二人は共にファグズに加入します。


    その後、キャロル・キングとジェリー・ゴフィンが離婚。ラーキーはキャロルの二番目の夫となります。彼らはロサンゼルスに転居。クリア・ライトへの加入の為にやはりロサンゼルスに来ていたダニー・コーチマーと共にシティを結成し、アルバム『Now That Everything's Been Said』を発表します。続いて、コーチマーの旧友であるジョエル・オブライエンをドラマーとして加えてツアーに出るはずだったのですが、キャロルのステージ恐怖症によってこの計画は頓挫、グループは解散を迎えます。

    ラーキー、コーチマー、オブライエンの3人は新たにジョー・ママを結成して2枚のアルバムを発表すると共に、ソロ・シンガーとなったキャロル・キングのバックバンドを務め、『Writer』『Tapestry』を生み出します。その後、キャロルのバック・メンバーの顔ぶれは徐々に変わっていくのですが、ラーキーだけは1975年の『Really Rosie』までずっとベーシストを務め、公私共にキャロルを支えました。

    しかし、翌年に二人は離婚。二人の音楽的コラボレーションも途絶えてしまいます。その後のラーキーはメジャーな活動からは遠ざかることになりますが、新進のシンガーを発掘して、そのベーシストやプロデューサーとして活動を続けているようです。ごくたまにではありますが、キャロル・キングのアルバムでベースを弾くこともあります。


Jon Lind

    ジョン・リンドはフィフス・アヴェニュー・バンドの出身です。彼らの唯一のアルバム『The Fifth Avenue Band』ではリンドは一曲しか自作曲を提供しておらず、ピーター・ゴールウェイ、ケニー・アルトマンの陰に隠れた目立たないメンバーという印象だったのですが、その後音楽界にもっとも大きな足跡を残したのは彼でした。

    フィフス・アヴェニュー・バンドの解散後、ニューヨークからロサンゼルスへと拠点を移したリンドは、新人女性シンガーのヴァレリー・カーターを見出し、ハウディ・ムーンを結成します。ローウェル・ジョージらのサポートを得て好調な滑り出しを見せたハウディ・ムーンでしたが、アルバムを一枚残しただけで解散。続いてフィフス・アヴェニュー・バンド時代の盟友ケニー・アルトマンと再びタッグを組みホワイト・ホースを結成。しかし、このグループもアルバム一枚で解散してしまいます。こうして、なぜかアルバムを一枚残しては解散するというグループを3つ経験して彼の70年代はほぼ終わるのですが、なぜか70年代末になって彼は突然作曲家として目覚めることになります。

    彼の人気作曲家としての活躍の第1弾となったのは、1979年にアース・ウィンド&ファイアでヒットした「Boogie Wonderland」(アリー・ウィルズとの共作)でした。その後、1985年にはマドンナの「Crazy For You」(ジョン・ベティスとの共作)、91年にはヴァネッサ・ウィリアムズの「Save The Best For Last」(フィル・ギャルドストン、ウェンディ・ウォルドマンとの共作)といった具合に、それまでの地味な活動が嘘のようにヒット街道を驀進します。

    話は前後しますが1987年からはプロデューサーとしても活動。シェールのプロデュースを担当したのを皮切りに、ポーラ・アブドゥル、ラリー・ジョン・マクナリーらの作品を手がけています。2000年頃にはディズニーの音楽部門の重役に就任。ディズニー制作番組のサントラを手がけたり、ディズニー系列のハリウッド・レコード所属アーティストの作品にエグゼクティヴ・プロデューサーとして関わったりしています。


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Produced by Minoru Sasaki



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